金曜日の夜は地元京都を離れて隣り町の大阪まで行ってきた。
まあ本来、年末に取引先と忘年会をやるはずだったのが、先方も当方にもコロナ感染者が出たために中止となったので、リベンジの再開といった感じか。
年末は流石に忙しいので延期に関してはラッキーな感じではあった。
年始もそれなりに忙しくもなるので、結局は忘年会→新年会→ただの飲み会が2月までずれ込んだ。
サラリーマン、特に営業マンで年末年始の挨拶回りってのは恒例行事であるし、これが割と疲れてしんどかったりする。
そんな閑散期の2月の飲み会ならまだマシか。
という事で大阪へ。
取引先との飲み会は淡々と済み20時過ぎに終了。
このまま京都に帰るつもりであったが、同行した社長が帰りたがらないのでもう1軒付き合う事に。
金曜日の夜に仕事の関係者といるのも嫌ではあるが、せっかくだから2軒目へ突入。
多分生まれて2回目の北新地とやらに行ってきた。
初めて行ったのは十数年前。行った人は覚えているけど、数年前にこの業界を去ったし行くことはもう無いかなと。
まあ縁もないし深酒できない年齢になってきたし、大阪の夜を程々に楽しむかなと。
北新地。
派手な通りは京都の祇園より活気があった。
祇園は寂れたよ。なんか暗いしなあ。
まあそんな事は今回のテーマではなく、boowyですから。
このブログを新地のママさんが読むことはないだろうと踏んで色々書きたいかなと。
そのママさん、熱狂的な氷室京介ファン。
すごく好感の持てるママさんで、多分お話は全て本当だろうと思うけど、boowy時代のヒムロックをよく知っておられた。
つか自宅までご存知で。
当時の解散理由まで聞けなかったけど、LASTGIGSの楽屋の雰囲気まで知っておられた。
こういう人っているんですよね。
ネットで検索しても出てこない当時の生き証人のような方。
もう1度あのお店でママさんに聞きたい事がいっぱいですが、やはりお高めな土地なんで機会があれば再訪したい。
で、boowyです。
初めて聴いたのは「ビートエモーション」のアルバムからです。
もういっぱいいっぱい聴きましたよ!
ちょうど中学3年生の頃やったと思う。
近所のレンタルレコード屋で借りてきた。
レンタルチャート1位で、はっきりいってboowyをそれまで聴いた事がなくてジャケットが格好良かったのと1位だからという理由だけで借りてきた。
もう1曲目のB•BLUEからぶっ飛びましたね。
西城秀樹の様なヴォーカルに聴いたことがないギターフレーズ。
中学生の自分には十分刺激的で格好良さに溺れてしまった。
僕はどちらかというと、ギタリストに憧れがあったので布袋寅泰さんがバンドでは1番好きでした。
で、こんなに好きになったのにバンドは翌年に解散しちゃうという。
ビートエモーションがリリースされたのが1986.11
サイコパスが1987.9リリース
もうバンドとしては濃厚な時間が過ぎていたんだろうなあ。
ちなみに1986.3に「just a hero」ですしね。
もう短期間に名曲ガッツリ出してやり尽くした?のかどうかは定かでないけど、燃え尽きるのには早いしマンネリなんかもなかったと思う。
音楽性の違いなんてのも違うだろうし「もうピークまでいったったし、ほな終わりや!」だったのか。。。
その辺りはあまり語られることがない?
高橋まことさんの書物によれば、布袋さんが山下久美子の手がけている時のメンバーがヒムロック除くだったのに激怒したとかしないとか。。。
布袋さんの書物には解散理由は墓場まで持って行くなんて言ってるし。
真実はやはりヒムロックと布袋さんにしか分からないんやろうね。
好きなのは布袋さんでした。
やはりアーティストとしては天才だと思う。
あのギターは布袋さんしか弾けない。
で、いまだに現役でライブや新曲もしてくれるので、まだまだ聴かせてくれそう。
ヒムロックは2016.5を持ってライブ活動休止。
アルバムぐらいはリリースがあってもいいが、もはや引退状態なんですかね。
やりたい事やってお金もあって、創作活動をどう考えているのかは不明だ。
でもその潔さはヒムロックらしい。
布袋さんは何かその辺りが商業ぽいというか。
また布袋さんの事はあらためて書きたいです。
boowyの再結成は絶対ないし、当然ライブも新作も出ない。
だから伝説のままで、想い出の中で生きていく。
これはヒムロックのバンドだからの伝説なんだろうなと。
異論はある人もいるかもだけど、boowyは氷室京介のバンドなんだなと。
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